
『今日のごちそう』には、各話ごとにイラストと、もちろんタイトルが入ってるんですが、
娘さんが興味津々で、寝るときの読み聞かせ本に仲間入り。
まさか、こういう形で、自作を娘に読むことになるとは(なんだか気恥ずかしい)。
彼女はアンコウ鍋が食べたいらしい。
あと団子。
「ラタツゥイユ」というカタカタは、なんとか読めた。すごい。
この作品はいくらか前、日販さんで連載してました。読み返して感じたのは、
『いつかのきみへ』から『今日のごちそう』くらいまでが、
文芸に移ってきたころの、僕の最初のピークだったんじゃないかということ。
シンプルに文章を連ねていくやり方は、今の僕が読んでも「へえ」と思う。
あれからいったん、社会派へと振って、そこから作家としての踊り場に入ったのかもしれない。
やがて文芸がどんどん変わっていった。
その変化に、僕はついていけなかった。
自虐、自嘲、自分語りが溢れた。
たとえば、自傷の痛みによって、存在を確認するとかね。
僕もかつて、そういう小説を書いたことがあるけれど、複数いるキャラクターのひとりに留めた。
そういう衝動を持つ人がいることは知ってるし、否定するつもりもない。
理解できるところもある。
だから書いた。
ただし、それをみんなが声高に語るという状況を、日常としたくない。
僕はかつて、とてもマイナーなジャンルのコアファンだったけど、
そのジャンルをメジャーにしたいなんて思わなかった。
隅っこのほうで、ひっそりと話すことを許してもらうだけでよかった。
だって、そのマイナーなジャンルがメジャーになる社会が素晴らしいとは、とても思えなかったから。
ひっそりやる楽しみと表現すればいいかな。
以前、読書好きの、ある少年に尋ねたことがある(彼の好みは僕と似ていた)。
「もし世界が、君と同じ価値観を有する人で溢れたら、それは楽しい世界かな」
彼はちょっと考えてから答えてくれた。
「そんな世界は嫌です」
彼のようなバランス感覚はとても大切だと思う。
まあ、とにかく、そういった自虐、自嘲、自分語りという文芸の変化に、
僕はまったくついていけなかった。
時代遅れと言っていい。
なかなかつらかった。
そんなころ、ある先輩作家さんに相談した。やめようかと思ってるんです、と。
先輩作家さんは、励ましてくださった。
心からの言葉を、僕にくれた。いかに「有り難い」ことなのか。
>そして、大集団である彼らがすっと移動できたのは、なぜなのか。それは、きっと「好意の交流」の
>たまものだったのではないか。排除の論理ではなく、慈愛と受容によって三内丸山の人々を受け
>入れた人々がいたのではないか。
その方のサイトから、引用いたします。
まさしく、慈愛と受容によって、僕は今も書き続けている。
自愛ではない。需要でもない。
作家同士って、案外、冷たい付き合いなんですよ。
だって、みんな、ライバルだもの。
「橋本さんが連載をするんなら、わたしは連載をやめる」
極端な例だと、こういうことを言った作家さんもいる。
いやまあ、ちょっと伝説になるくらい、極端な例ですよ。
蹴り落とされることもあるけれど、一方で手を伸ばしてくださる方もいる。
僕はそれでいいんだと思う。
嫌らしいだけの社会も、優しいだけの社会も、なんか変だもの。
どうでもいいことが長くなりましたが、『今日のごちそう』をよろしく。
書いた側としては、『うどん』『味噌漬け』『漬物』が気に入ってます。
『味噌漬け』は『永代橋』と対になってるかな。
写真は長年使ってる中華鍋と『今日のごちそう』。
中華鍋は五年ぶりのメンテナンスをしました。
紙やすりをかけて、ツルツルにし、油を引いて葱を炒める。
これでまた、五年は大丈夫。
同じように、僕自身もたまにメンテナンスしないとね。